希望の国のエクソダス



村上龍の「希望の国エクソダス
日経平均が12,000円を切り極端な円高に振れだしたときから、何かのデジャブを感じていて、
それがこの小説だったと気づいて読み返しました。
読んだ本は捨てる主義だったので、買い直して多分3冊目。

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

ぬるま湯に浸かったまま緩やかに死んでゆくこの国と決別し、
全国の一斉不登校中学生が、
新しいカタチのネットワークとコミュニティをつくり、新しい何かになっていくという話です。
2000年ころに書かれ、2002年あたりを舞台にしているのですが、
細かくは書きませんが、ウォン-円ペッグとか、ビデオジャーナリズムとか、既存メディアの凋落とか、
今の現実が小説をトレースしていってる気がします。
(米国がサブプライムで先にコケたのでズレが生じましたが)


で、それはそれで面白かったのですが、今回はそれとは別のシンクロニシティも感じました。
それは日本経済だけでなく、広告業もそっくり同じということです。
利権構造でもビジネスモデルでもない、もっと根源的な態様の変化を受け入れられず、
耳をふさぐか、うろたえるか、理解したふりをする。
そうしてゆっくりと死んでゆき、ある日突然終わりが訪れる。
結構考えることが多かったです。
特に3番目は、総合広告会社のインタラクティブディビジョンにいる私たちなのかもしれません。
決められた枠の中で進化しようとしているふり、はもうやめよう。


大学時代の友人が、村上龍主宰のメルマガの寄稿者でした。(今でもそうかな?)
彼曰く、龍さんはとても真面目で、集中して謙虚に勉強をする人だそうです。
多少いいとこ取りで煙に巻くところもありますが、まだの人はぜひ読んでみることをおすすめします。


最後に、とくに心に残った文を書き出します。
ある意味ネタバレなんで要注意。








  • ブルックリン研究所やムーディーズが直接陰謀に加担しているということではなくてね、かって十九世紀に植民地が無知で無力なためにその資源を好きなように利用されてたわけでしょ。同じように、根拠のない資産を持っている無知で無力な国からはそれを奪うというのが国際資本主義の鉄則なんだってさ。それは水が高いところから低いところに流れ、夏にはシュエ山の雪も溶け出すように自然なことなんだって。


  • 円にまだ力があるからこういったものを輸入できるわけだし、失業率が七パーセントを超えているといっても外の通りで暴動が起こっているわけではない。何か不吉なことが進行しているという曖昧な予感と、シリアスな事態にはなりようがないという曖昧な安心感が同居していて、前世紀の一九九〇年代からそれは変わらない。



  • たばこ屋に並んでいる夕刊のトップはすべて円の危機だった。朝日はアジア通貨基金の七割が流出という大きな見出しを付けていた。読売は、国際投機筋の陰謀?という見出しだった。その黒々とした大きな見出しと周囲のいつもと変わらない風景のギャップにおれは胸騒ぎを覚えた。こういう風にして何か決定的なことが起こり、それまで続いてきた平穏な日常というやつが突然に終わるのかもしれない。


  • 確かその老テクノクラートは、円へのアタックを防ぐ唯一の方法は新しいビジョンを提示する大きな集団が日本に現れることだ、と言ったのだった。


  • 二〇〇二年の師走がもの悲しく感じられるのは単純に経済的停滞が長く続いているからではなかった。前世紀末にはまだはっきりとしていなかった日本の進路のようなものが見え始め、そこには今後日本国民の生活が一律によくなることはない、という一体感の喪失が含まれていた。一体感の喪失をほとんどの国民が認識してしまったのだった。


  • 市場というものがどういうものか少しわかりました。市場というのは、欲望をコミュニケートする場所で、まるで空気みたいに、あるいはウィルスみたいに、どこにでも入り込んできて、そこまでそこにあった共同体を破壊してしまうんです。共同体が持っていたモラルや規範を無意味なものにしてしまうんです。


  • 絶対に崩壊しない制度はないということをポンちゃんたちは示した。また、共同体のコミュニケーションの質が変化していくことも示した。つまり未来や人間の関係性は常に不確実だということだ。


  • テレビは、日本に大量に誕生した経済的な敗者が不安を忘れるための娯楽としてのみ機能した。